幻の寫眞集「楽園」からの連想ノート


寫眞集「楽園」あとがき。

 撮影中に、しあわせとは何かと聞かれたので、それは関わり方とその結果しだいのもので、線ではなくて点なのだと答えたら「じゃあ私は今日しあわせです」と言われて、いま天使の羽をほしがっているラプンツェルとの次の作品集のタイトルを「楽園」に決めた。「あのときはこんなこと言ってましたよね」とかラプンツェルが中学生だった頃に私が話したことも覚えてくれているから、愛情とか信頼が彼女に残す点がしあわせであってほしいと思う。


寫眞集「楽園」の裏返し。

 しあわせとは関わり方とその結果が相手に刻む「点」だと書いた。ならば視点を変えて、相手を見つけられず居場所がない「私」に刻まれるしあわせの「点」とは、私が無になるその瞬間かもしれない。すべてがウソだから心を保つために身体に「点」を刻む。人は誰とも繋がれない。

 世界とは生まれたがゆえの不可逆性という悲しみとその浄化の螺旋のフラクタル 。記憶は上書きされて起点は喪失し円環は螺旋になるから進まざるをえない、そのかなしみが世界のすべて。

 感覚でああこれはだめだいやだと思ったものはだいたい正しい。そこに囚われ続けて生きていることを突きつけられ続けていて苦しい。それで私は寫眞から逃れられない。

寫眞とは、やって来るもの。

 見ることは見ないことでもあり、見たいものを見ようとすれば見たくないものは退けられる。裸であるということは、裸であることで裸ではないということでもある。裸であることが裸でないならば、裸は美しいなどというメッキは剥がれる。カメラは対象に意識を向ける程に被写界深度が浅くなり周囲はぼやける。意識を向けたそれがメッキならば、何を見ていたのか。

 原因と結果とは、点と点を結んでみたらほら線が引けましたというだけのこと。移動の途中には始りも終りもない。点から点へと移動することで新たな点が見えるという連続と、その連続が直線ではなく螺旋を描くのだと知ることが、しあわせの見つけ方。


 私がいかに最低なのかを見つめようにも、私の存在自体までを否定はできないので、どうしたところでなかなか、私の本当のところの誤りにはたどり着けない。他人を批判するようには自分自身を裁けない。誰しも、私は間違ってはいないのだ。そっくりな他人を見ても自分だと認めるのは難しい。


 そのことに関心を持っている私は、概ねあなたの味方であり理解者であり私は根本的には間違ってはいない、と物事を捉えるときの私の主軸は私の側に寄りがちで、それに気づいたところで、主軸がどれほど私の側に寄ってしまっているのかを当事者が見つめることは難しい。自分自身のことは、見ようとするほど見えなくなってしまう。

 せかいは、どうしたところで常に私の側に傾いていて、あなたのことを本当にはわからない。私はどこまでも独りである。それが地獄であり、それが楽園である。